|
「貧しくてもいい。好きな絵の道で生きていければ。」高校二年の夏に決めた。 |
|
なぜ日本画を選んだか? |
|
その頃選択肢は二つあった。油彩画か日本画か。油彩画も嫌いではなかった。しかしその末流に位置し |
|
当時もてはやされていたマルセル・デュシャンやアンディ・ウォホール、ジャスパー・ジョーンズなど |
|
には賛同できなかった。 |
|
いっぽう日本絵画の本当に良いものは同時代のものでも何の抵抗もなく心に飛び込んできた。 |
|
|
|
師事・修行・略歴
|
|
高校美術部は彫刻の岐部琢美先生が担当していた。人生で初めて、芸術家の匂いがする人に出会った。 |
|
教師の傍ら素晴らしい彫刻を作り、多くの美術家を育て、今でも常葉の大学で教鞭を取っている。 |
|
その後東京で二年間の浪人生活を送った。当時創画会に所属していた武田成功先生、川端毅先生、院展の |
|
鈴木恒世先生に絵の基本をみっちり教わった。この頃の勉強が一番役立っている。 |
|
武田先生は今では日本を代表するガラス作家として活躍している。 |
|
そして東京芸大日本画科に進んだ。芸大時代、吉田善彦先生、平山郁夫先生を始め錚々たる日本画家に |
|
師事した。特に下田義寛先生には熱く教えて頂き今でも感謝している。 |
|
この頃、空手にも熱中し、馬場勇先生、田中昌彦先生の薫陶を受けた。 |
|
卒業後、病気になり故郷で療養することになった。 |
|
数年後回復したが、いきなり画家として生活するのは厳しかった。 |
|
ちょうどその頃結婚し細江町に住み始め、故野島青茲先生が導いてくれたのか 町立図書館で個展を |
|
開くことになった。1992年、初個展だった。 |
|
また当時嬉しかったのは佐久間歴史と民話の郷会館の緞帳原画を担当できたことだ。1999年、細江町 |
|
立歴史民族資料館「秋の芸術祭」で個展を開くチャンスを頂いた。2回目の個展ができた。 |
|
そうこうしているうちに、注文も入り始め何とか画家として生活できるようになった。
|
|
|
|
作品・これから |
|
|
|
|
|
|
花を描いては、にほうがごとく。
|
|
風景を描いては、涼やかな風が流れてくるような。
|
|
人を描いては、やさしさがにじみ出てくるような |
|
そんな絵を誠実に描いていきたい。
|
|
また、浜松美術協会は県西部地域に根ざし、この地の美術を盛り上げていこうという主旨で |
|
500人ほどの団体に育ってきた。今年は7月8日から13日まで「なゆた浜北」で
|
|
第4回目の展覧会を開く。その副会長として現在活動している。 |
|
|
|
以上 静岡県立美術館友の会 会報 「プロムナード」2008年春号「アトリエ訪問 竹内雅明」 |
|
(松本幸治 記)草稿より抜粋、 |
|
|
|
|
|
|
|
|
毎年5月の凧まつりの時期にクリエート浜松で「浜松美術協会展」を開催していますが、2010年以降は、 |
|
出品者多数のため会期を1週間づつ2期に分け展示するほどの盛り上がりになりました。 |
|
さらに、この地域の美術のレベルアップを図るため、クリエート浜松前館長の村瀬さんと相談した結果 |
|
浜松文化振興財団主催「スーパーデッサンクラス」が、2011年10月にスタートいたしました。 |
|
趣味の範疇を超え、極めることを目指す修行のクラスです。 |
|
私は足掛け6年勤めた浜松美術協会の副会長を2012年春の総会で退任しましたが、今後は参事と |
|
して会の発展のために奉仕していきたいと思っています。 |
|
|
|
最後に |
|
「竹内さんの作品に引かれ多くの人に 『日本画家 竹内雅明さん』を知っていただきたいとの思いで |
|
HPの作成を願い出ました。 |
|
このHPを作成するにあたり、画面からでは竹内さんの作品の持ち味 非常に繊細で、細かい描写力は |
|
伝わりにくいものとつくづく感じました。 ぜひとも、個展や作品展を通してその目で確かめていただきたい |
|
と思います。 |
|
また 過去の作品 最新作も 掲載していく予定でありますので これからも どうぞご期待ください。」 |
|
HP作成 巳右衛門 |
|
|
|
|
|
お問い合わせ |
|
竹内雅明
〒431−1301
浜松市北区細江町小野735−32
TEL 053−523−2784 |
|
|
|
|
|
|